田代コーヒーヒストリー
創業時の奮闘
昭和8年2月、田代珈琲は「田代兄弟商会」として戦前にシロップの製造業を起業しました。創業者は田代 辰(たしろ のぼる)。 当時、銭湯や駄菓子屋や売られていたミカン水などの清涼飲料水を製造する「鉱泉所」というところが地域ごとに存在しており、そこにシロップを卸していました。そのシロップの味付けとしてコーヒーを加えてコーヒー牛乳の素を作ることになったことを契機に、その後は株式会社 房屋商店として改組し、コーヒーの製造も手掛けることになります。 戦前には大きく売り上げが上がり、地域の自治会や軍にも沢山の寄付を行い、数々の表彰を受けていましたが、戦争が本格化した時には会社を閉鎖、財産を抱えて香川県・観音寺に疎開することになりました。しかし、敗戦でその財産も紙切れとなります。 昭和23年の戦後、再び大阪の地でコーヒー会社を興すことになりました。戦後の会社経営は前途多難が予想されましたが、戦前の人脈から紅茶の輸入販売権を獲得し商売を大きく発展させていきます。しかし、すぐさま紅茶の輸入販売権も自由化され会社の勢いも失速することに…。その変わりにコーヒーの販売業は喫茶店、レストランなどでコーヒーが広く飲まれるようになり、昭和30年代になるとコーヒーの売り上げが大きく伸びてきました。
復活と挫折の繰り返し
そんな最中、昭和41年に初代 田代 辰 は死去し、2代目田代好埈(よしたか)が25歳で継ぐことになりました。 この時代から「喫茶店ブーム」が沸き起こります。ブームのおかげで1978年頃までお得意先が増え続けましたが、 1973年のオイルショック、1975年のブラジル大霜害で価格が暴騰したりと経営環境が平穏であったとはいえず、2代目も経営のかじ取りには苦労したようです。1978年頃からはお得意先は減り続け、卸業から小売業へ、本社移転を機に業態転換をはかったのは1985年のことでした。 1985年を契機に本社を現在の東大阪市に移転し、家庭用の小売販売にも力を注ぎだしました。その頃、世はバブルに突入し、景気の良さから業績もアップ。小売業も早くに力を入れてDMを中心に地方発送も積極的に行いました。
新しい時代のコーヒーを模索
しかし90年代にバブルは崩壊し、業績は悪化。迎えた1994年、2代目好埈が死去。3代目社長には長男 和弘が就任しました。 その後、多店舗展開を目指し1998年には4号店を開店させ、再び業績を伸ばしましたが、しかし、売り上げの伸びは止まり、多店舗での焙煎から豆の鮮度を保ったまま販売することに限界があり、方向性を模索する毎日が続きました。そこで1999年には社長の発案から、パソコンをまったく触ったことのないこの田代珈琲が、ネット事業を目指すことになります。 ホームページは2000年に完成しましたが、当初売り上げは作れず、試行錯誤の末モール出店などを契機に、コーヒーの販売業は少しずつ伸びてきていました。 同時にスペシャルティコーヒーという高品質のコーヒーとの出会いが、田代珈琲を大きく変えていくことになりました。
あるべきコーヒーロースターを目指して
- 2002年…カップオブエクセレンス・ニカラグアのコーヒーをある経営者から紹介されました。1997年頃から高い品質のコーヒーを取り扱いという方針は出していましたが、価値観を大きく変えたのがこのコーヒーを口にした瞬間でした。
- 2008年…カップオブエクセレンスの国際審査委員として初めてエルサルバドルに行きました。一週間の審査を得て最終日の表彰式。作業着のままで表彰される生産者、そしてそれを囲むファミリーの笑顔。この時使命感が芽生えました。
- 2010年…新卒雇用を開始。
- 2012年…2010年入社の新卒社員(西原伶菜)がプライベートで開催されたカップテイスターズチャンピオンシップにて全国2位を獲得。人の成長と可能性に大きく気づきました。
- 2012年…TASHIRO LABオープン
- 2012年…TASHIRO CAFEオープン
- 2012年…厚生労働大臣賞 キャリア支援企業表彰
- 2013年…ジャパンロースティングチャンピオンシップ準優勝(岩田倫子)、ジャパンカップテイスターズチャンピオンシップ全国8位
- 2013年…商社主催のカップテイスターズチャンピオンシップ全国3位(加藤晃子)
- 2014年…経済産業大臣賞 ダイバシティ経営100選
- 2014年…メキシコカップオブエクセレンス優勝農園初単独落札